旅行

京都自転車旅(二条城編)

ずっと行きたかった場所、二条城に行ってきました。

この写真は二条城の東南側から見たものです。

さあ歴史から一つ一つ解説しながら書いていきたいと思います。

長めのブログになると思いますのでご容赦ください。

二条城

二条城へのアクセス

※ 目次を見てもらうとわかる通り二条城をより良く知ってもらうために歴史を勉強した後に私の訪れたブログ紹介の構成となっています。

目次

  1. 二条城の歴史
    1. 二条城について
    2. 城の歴史
    3. 年表
    4. 二の丸御殿
    5. 本丸御殿
    6. 庭園
  2. 城内を訪れて見て
    1. マップ
    2. 私のガイド(実際に城内散策)
      1. 入り口(東大手門)
      2. マップ
      3. 番所
      4. 国宝 二の丸御殿
      5. 釣鐘
      6. 庭園 二の丸
      7. 重要文化財 本丸櫓門
      8. 庭園 本丸
      9. 天守閣跡
      10. 本丸御殿 工事中
      11. 重要文化財 土蔵(北)(米蔵)
      12. 野面積み?
      13. 加茂七石
      14. 清流園
      15. 重要文化財 北大手門
    3. 二条城に関わった歴史人物
    4. 二条城入城チケット購入
    5. 私のオススメ
      1. 勉強
      2. 大河ドラマ
  3. 最後に

1.二条城の歴史

1. 二条城について

二条城の概要

二条城は1603年(慶長8年)、江戸幕府初代将軍徳川家康が、天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とするため築城したものです。将軍不在時の二条城は、江戸から派遣された武士、二条在番によって守られていました。
3代将軍家光の時代、後水尾天皇行幸のために城内は大規模な改修が行われ、二の丸御殿にも狩野探幽の障壁画などが数多く加えられました。壮麗な城に、天皇を迎えることで、江戸幕府の支配が安定したものであることを世に知らしめたものです。
1867年(慶応3年)には15代将軍慶喜が二の丸御殿の大広間で「大政奉還」の意思を表明したことは日本史上あまりにも有名です。
二の丸御殿、二の丸庭園、唐門など、約400年の時を経た今も絢爛たる桃山文化の遺構を見ることができます。1994年(平成6年)、ユネスコ世界遺産に登録された二条城は、徳川家の栄枯盛衰と日本の長い歴史を見つめてきた貴重な歴史遺産と言えます。

HPから引用

はい、

ということでこの文章読んで歴史好きの人はすぐにわかると思いますが、普通にわからない人も結構多いと思います。

各ホームページには良いことや歴史の背景となること等多くのことが書いてありますが、みなさん訪れてもなんのことなのかわからずに素通りすることが多いと思います。

私もその一人です。

ですのでこのブログでは、ホームページの文章を本当に少しだけ噛み砕いて!?解説していきます。

上洛

将軍は下国してしまっていた守護大名たちに、幕府に協力するように要請を出していた。その要請に応えて京の都に戻ろうとすることを「上洛」と言った。

二条在番

勤番をすることで、要は今で言う警察官のようなものであった。

将軍様をお守りする人達のこと

大政奉還

政権天皇返上すること。慶応3年186710月14日江戸幕府の第15代将徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が政権朝廷返上することを申し入れ朝廷が翌15日それを受け入れたこと。これによって鎌倉幕府以来700年続いてきた武家政治終了した。

ウィキペディア

2. 城の歴史

後水尾天皇の行幸

天皇の外出のことを「行幸」と言います。二条城においては、1626年(寛永3年)9月、上洛中の徳川秀忠、家光の招きに応じ、後水尾天皇が行幸しました。2代将軍秀忠の娘であり、天皇の中宮となった和子らと 5日間滞在し、能や和歌などの会が賑々しく催されました。行幸を迎えるにあたって、2年前から城を現在の広さまで拡張し、天守閣や行幸御殿、本丸御殿なども造営されました。また、狩野派の見事な障壁画も行幸に際して新たに描かれたと言われています。その後、行幸御殿等は移築され、天守閣、本丸御殿等は焼失しましたが、二の丸御殿は今も往時の風情を伝えています。(HPから引用)

今と少し似ていますね。天皇が行幸することによって城の拡張を実施した点、今で言うと天皇陛下がお通りになられる場所は工事をして通る前に道路の舗装をする点、このような部分は今も昔も変わらないですね。

この文章内はそんなに難しくないと思いますので次に進みたいと思います。

大政奉還

1867年(慶応3年)10月14日、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上することを申し出て、翌15日に朝廷が許可し、江戸幕府の幕は降ろされました。これを日本史上、大政奉還と呼んでいます。
徳川家康が朝廷から征夷大将軍を宣下されて以来、政治の大権を天皇から徳川家が預かる形で、日本の統治者として君臨してきましたが、幕末、薩摩藩と長州藩が同盟を結んで討幕運動を始め、土佐藩からは慶喜に大政奉還の意見書が提出されました。それを受けて慶喜は、10月13日、二条城二の丸御殿大広間に、在京していた40藩の重臣を集めて意見を聞き、翌々日、大政奉還が成立したことで、一旦は討幕の動きは弱まりましたが、やがて江戸無血開城へと至りました。(HPから引用)

徳川幕府終焉です。

これが大政奉還。

徳川の歴史200年に幕が降りた時です。

なお、薩摩藩と長州藩が手を結んだことを薩長同盟といいます。

この2大勢力が結託したことで、徳川方に対し、意見書を出せるようになりました。

大正天皇即位の大典

大正4年(1915年)、京都御所の紫宸殿で、大正天皇の即位の儀式が行われ、その後の饗宴が二条城で開かれました。この一連の行事のことを「大正大礼」と言います。饗宴には皇室関係者、各国の要人や総理大臣が招かれ、当時、天皇の別荘として利用されていた二条城で、新たな天皇の即位を華やかにお祝いしました。饗宴のために様々な建物が新築されましたが、直後に移築または撤去され、現在は南門だけが残っています。(HPから引用)

2年ほど前に東京で行われた天皇即位の礼の後の宴が大正天皇は二条城で行われておりました。

みなさんこの事実ご存知でしたでしょうか?年配の方は知っている方も多いかと思いますが、今の若い方達は知らない方が多いのではないでしょうか。

やはり二条城は歴史のある日本の宝、大切な場所ですね。

大政奉還と大正天皇即位の大典は難しい言葉が使われていないので割愛させてもらいます。

3. 年表

1601年(慶長6年)徳川家康が西日本の諸大名に二条城の築城を課す。
1603年(慶長8年)二条城完成 (現在の二の丸部分)家康初めて入城。徳川家康
徳川家康
1611年(慶長16年)家康が豊臣秀頼と会見。
1614年(慶長19年・元和元年)城内で大阪冬の陣・夏の陣の軍議を開き、当城より出陣。
1624年(寛永元年)3代将軍家光、城の拡張・殿舎の整備に着手。徳川家光
徳川家光
1626年(寛永3年)本丸・二の丸・天守閣完成。現在の規模となる。
9月、後水尾天皇二条城行幸(5日間)。
1634年(寛永11年)家光、30万人ともいわれる大軍を率いて入城。
1750年(寛延3年)8月、雷火により 五層の天守閣焼失。
1788年(天明8年)1月、市中の大火により 本丸御殿などが焼失。
1863年(文久3年)14代将軍家茂入城 (3代将軍家光が入城して以来の入城)。
徳川家茂
徳川家茂
1866年(慶応2年)城内において慶喜15代目の将軍職を継ぐ。
1867年(慶応3年)10月、二の丸御殿大広間に在京諸藩の重臣をあつめ、慶喜が大政奉還の意思を表明した。
1868年(明治元年)1月、城内に太政官代を置く (現在の内閣にあたる)。
1871年(明治4年)二の丸御殿内に府庁を置く(のち一時陸軍省になる)。二の丸御殿
二の丸御殿
1884年(明治17年)皇室の別邸 「二条離宮」となる。
1893年(明治26年)京都御所の北東にあった桂宮御殿を本丸に移築し、本丸御殿とする。翌年完了。
1915年(大正4年)大正天皇即位の大典が行われ大饗宴場を造営(現清流置の位置)。南門ができる。
1939年(昭和14年)宮内省が二条離宮を京都市に下賜。
1940年(昭和15年)2月11日恩賜元離宮二条城として 一般公開をはじめる。
1952年(昭和27年)文化財保護法の制定により、二の丸御殿6棟が国宝に、東大手門など22棟の建物が重要文化財に指定される。
1953年(昭和28年)二の丸庭園が特別名勝に指定される。
二の丸庭園
二の丸庭園
1965年(昭和40年)清流園造成。
1982年(昭和57年)二の丸御殿の障壁画が重要文化財に指定される。
1994年(平成6年)ユネスコの世界文化遺産に登録される。
2005年(平成17年)二条城障壁画 展示収蔵館 開館。
2011年(平成23年)二条城本格修理事業に着手。

年表は二条城のホームページから引用しました。

リンクはこちら⇩

https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009050427_00000

二条城の最初はやはり徳川家康ですね。西日本の大名らに築城を課しました。

大阪冬の陣と夏の陣の出陣場所でした。この戦はかなり有名ですね。

有名どころで見ようと思うと、、

真田丸⇩

https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009050427_00000

徳川家康⇩

https://www2.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=taiga030

いずれも大河ドラマです。また、2023年には徳川家康の大河ドラマがやるとかやらないとか、すごく楽しみです。

4. 二の丸御殿


二の丸御殿は全6棟の建物からなり、江戸初期に完成した住宅様式である書院造の代表例として日本建築史上重要な遺構です。江戸城、大坂城、名古屋城の御殿が失われた今日、国内の城郭に残る唯一の御殿群として国宝に指定されました。
内部は、日本絵画史上最大の画派である狩野派による障壁画と、多彩な欄間彫刻や飾金具によって装飾されており、将軍の御殿にふさわしい豪華絢爛な空間となっています。(HPから引用)

二の丸御殿MAP
HPから引用

入り口から順次説明をしていきます。

1.遠待

遠待は来殿者(来客)が控える場所で徳川の権力を象徴するかのように大きな部屋になっており装飾も綺麗になっていたそうです。

2.式台

将軍への用件や献上物を取り次ぐ場所となっています。

3.大広間

将軍と大名等の公式の対面所となってます。

部屋は透かし彫りの欄間の彫刻や書院造りの特徴である床の間等があります。

4.黒書院

江戸時代の名称は小広間です。

大広間につぐ公式の場所です。

将軍や徳川家に近しい大名や高位の公家等が対面しました。

5.白書院

将軍の居間と寝室のこと。

江戸時代には”御座の間”と呼ばれていた。

5. 本丸御殿

本丸御殿

・歴史

本丸は城の中心部にあり、内堀で守られた区域です。3代将軍・徳川家光が、1626年(寛永3年)に後水尾天皇行幸を迎えるため、城の区域を西側に拡げ、新たに築きました。その際、本丸内に御殿が建てられましたが、1788年(天明8年)の大火で焼失しました。幕末には、15代将軍・徳川慶喜が御殿を建てましたが、1881年(明治14年)頃に取壊されています。
現存する本丸御殿は、桂宮家が京都御所の北(今出川御門内)に建てた御殿の主要部を、1894年(明治27年)に明治天皇の意向により移築したものです。当時は、二条城が天皇家の別荘である離宮として利用されていたからです。

・建築

江戸時代の宮家の住宅建築は、全国的にほとんど残っていません。本丸御殿は、当時の宮家の生活空間を知ることができる貴重な例として国の重要文化財に指定されています。また、移築後は、皇太子時代の大正天皇が約10回滞在されたことが伝えられる等、離宮として重要な役割を果たしました。「玄関」、「御書院」、「御常御殿」、「台所及び雁の間」の4棟で構成されます。

(HPから引用)

本丸御殿は後水尾天皇を迎えるために築城され、大正天皇が愛した場所である。

こう覚えておけば覚えやすいでしょう笑。

さて図も用意しました。こちら⇩

本丸御殿MAP
HPから引用

ホームページではこのように書かれています。

保存修理工事

阪神淡路大震災により生じた構造の歪みを修理し、今後も文化財として安全に活用するために、耐震補強を施すため、2017年(平成29年度)から本丸御殿の保存修理工事に着手しています。
2023年(令和5年度)に保存修理工事が完了した暁には、一階部分は通年で一般公開するとともに、御書院の能舞台の設え等を文化イベントに活用する予定です。

とのことです。

いきましたが、やはり本丸に入ることは叶いませんでした。ショックではありましたが、また今度入りにいきたいと強く思いました。

ですので、本丸の勉強はこれくらいに簡単に切り上げたいと思います。今度、入ることが出来た時に改めてブログ更新していきます。楽しみにしてください。

6. 庭園

庭園は、

  • 二の丸庭園
  • 本丸庭園
  • 清流園

の3つがあります。

二の丸庭園

作庭の年代については記録や作風から推測して、1602年~1603年頃(慶長7年~8年 家康時代)二条城が造営されたときに、その建築に調和させて作られたものですが、1626年(寛永3年 家光時代)の後水尾天皇行幸のために一部改修を加えられたと考えられています。
書院造庭園である二の丸庭園は神仙蓬莱の世界を表した庭園と言われています。後水尾天皇行幸当時の姿は、新たに増築された行幸御殿、中宮御殿、長局等に取り囲まれた中庭的な庭園としてつくられ、池の中に御亭を建て、池の中央3つの島、4つの橋を併せ持ち、二の丸御殿大広間上段の間(将軍の座)、二の丸御殿黒書院上段の間(将軍の座)、行幸御殿上段の間(天皇の座)・御亭の主に三方向から鑑賞できるように設計されていました。

特に、大広間からは庭園ごしに天守閣が一部望めたものと思われます。その後行幸の翌1627年(寛永4年)から四半世紀にかけ、二の丸庭園を取り囲んでいた行幸諸施設は移築・撤去され、小堀遠州の作庭意図も薄れていきました。3代将軍家光の上洛以降、14代将軍家茂が上洛するまでの、229年間将軍不在のまま幕末を迎えます。その間事由は定かではありませんが、吉宗の時代に庭園の改修が行なわれました。

時代は下り、15代将軍慶喜の上洛時には、樹木はほとんどなく、池は枯渇して枯山水風の庭園景観を呈し、荒廃していました。大政奉還後、二条城は転々と所管が変わり、宮内省に所管されてからは5回以上改修が行なわれ、離宮的・迎賓館的な城として利用されました。特に離宮時代に行われた植栽工事は、幕末の庭園景が変貌する程の大規模な改修工事で、今日に至る基本的な景観が完成したと考えられます。京都市に下賜されてからの二の丸庭園は、1939年(昭和14年)名勝に指定、1953年(昭和28年)に 国の特別名勝の指定を受け、文化財的資産と観光要素の一つとして維持され現在に至っています。(HPから)

要は天皇主体で、天皇のために作られたものである。さらにその造りから年代が二条城造営当時のものであると推測されるとのことであった。

本丸庭園

本丸造営当初の庭園は、史料が不足している為、どのようなものであったか分かっておりませんが、二の丸庭園にひけをとらない庭園が存在していたと考えられています。しかし、1788年(天明8年)の大火の飛び火によって本丸御殿、隅櫓、多聞櫓などが焼失。庭園も延焼して空地となっていたと思われます。幕末には、本丸内に徳川慶喜の居室が建てられ、庭園は茶庭風に作られました。(HPから)

本丸庭園についてはあまり資料が残っていなくわからないみたいですね。

また違ったところから出てくるのを待ちたい、出てくるのを待ち望みたい!?なんて思います。→淡い期待。

清流園


創建時(家康の時代)の二条城北部清流園地区は洛中洛外図屏風などから城内通路と天守閣の一部が存在していたと推定されます。しかし、1624年~1626年(寛永元年~同3年 家光の時代)にかけての二条城大改修の折、天守閣は淀城に移築されて空地となりました。寛永年中以降、在番衆(管理する武士)の住まいが建造され、幕末まで建造物群があったことが確認できます(但し、一時天明の大火で焼失)。彼らの住まいは明治前期に撤去されたと考えられ、緑地に整備されたと思われます。(HPから)

この地区では、もともと天守閣つまり城が存在していたのではないのかと言われています。

なお、その後に移築され空き地となってしまったのですが、その後建造物群が出来たりと時代の流れに沿ってその顔が変わっていったと書いてあります。

最終的には緑地として整備されて現在に至るようです。

2.城内を訪れてみて

1.マップ

ガイドマップ
HPから引用

城内マップと写真がこちら⇩↑

マップを見てもらうと南側に地下鉄二条城駅があり、そこの駐輪場に自転車を駐輪した後、券売所で券を購入して東大手門から入城していきました。

2.私のガイド(実際に城内散策)

1. 入り口(東大手門)

今回、東大手門の入り口がら入城しました。

マップでいうところの東側の真ん中あたりに入り口が設置されてあり、その少し北側には券売所が設置されています。

二条城の正門で1662年に作られたものです。初めて天皇が来た時にもこの門から通られたとのことです。

私もこの門から入城します。

さあ楽しみです。

歴史ある二条城勉強してから入城するのと、何も知らない状態で見にいくのとでは全然違いますからね。

中学生以来の入城になるのではないでしょうか。

2. マップ

ガイドマップ

上記のマップを見てもらうとわかる通り東大手門(マップの右側)からのスタートになります。

現在本丸御殿は工事中のため中に入ることも外からの外観を楽しむこともできない状態となっております。

今回は本丸御殿は中を見ることができませんでしたが、本丸庭園は見ることができました。

本丸御殿以外をプレビューさせてもらいます。

ちなみにルートは東側から入城→南側を西方向へ通り二の丸御殿を見た後、本丸方向、一番西側に着いたら北側から東方向へ行き東大手門方向へ戻るといったルートです。

3. 番所

二条在番なる武士たちがこの場所で今で言う警察官のような役割をしていたと言うことです。

お殿様を守るための護衛といいましょうか、市民を守る警察官というより今で言う皇宮警察のように思えます。

しかも現在残っている建物としてはこの建物以外は全国にはすでに存在しないとのことですので、かなり貴重な建物が京都には残っていますね。

ここの中はどのようになっているのか、昔の警察官がどのように勤務をしていたのかが気になるところではありますが、なかなか中を見ることはできませんね。

もし見れる時があればぜひ一度見るために訪れて見たいものです。

4. 国宝  二の丸御殿

さあやってきました本命の二の丸御殿!!

外観がとても綺麗で感動しました。この建物はここからでは想像がつかないほど奥(北)の方に向かって長いのです。

またこの場所が大政奉還が行われたと言われている場所であります。

私は中学生の修学旅行以来の尋人になりますが、しっかりと噛み締めて帰ろうと思います。

なお、中は撮影禁止ということでしたので写真はありませんができる限り皆さんにわかりやすいように内容をお伝えさせていただきます。

まずは二の丸御殿の廊下からご紹介していきます。

二の丸後殿の廊下には人が歩くと音がなる仕組みがあります。さあこの仕組みはどのように作られているのでしょう。?

紹介します。⇩

二の丸御殿の廊下
HPから引用

図を見てもらってわかる通り、板と梁の間に隙間があります

その隙間に重力(人の足が乗る)がかかることで音が鳴る仕組みとなっているのです。

この構造は私が中学生の修学旅行の時にバスガイドさんが説明してくれたことを今でも鮮明に覚えており、現在ではその仕組みまでようやく分かりました。笑←遅い

なお、人が歩くと鳥が泣くような音が鳴ることから”うぐいす張り”と呼ばれています。

そして二の丸御殿の見所といえば、そうです、大政奉還がされたと言われる場所です。

大広間。

ここをお話していきたいと思います。

大政奉還が表明された大広間 二の間から一の間を見る
HPから引用

ここが大広間です。

一の間の天井を見るとわかるのですが、上が少し高くなっています。

これは上段の間に座る人の中でも最も位の高い人が座る場所として格をつけるために用いられた造りであって、この場所に将軍が座っていたとの説明書きがありました。

またほかの部屋とも少し違うところが欄間は全て裏表があり、欄間の表側が将軍様が座る方向、いわゆる上座的なようなつくりが施されていること。

さらに、障壁画も豪華なものがこの部屋には作られており、この場所では天皇のために作られたと言われている狩野探幽が一門の総力を挙げて制作したものです。

5. 釣鐘

二ノ丸御殿から外に出るとこんなものが目に入ってきました。

火事等の緊急事態の時に使われていたものであるとのことでした。

本来は下屋敷なんかで使われていたみたいですが、現在では二条城に移されているとのことです。

6. 庭園 二の丸

大広間から園庭越しに天守閣が一部望めたものと言われています。

将軍さまや天皇がゆっくりと園庭を眺められるように作られたとも言われています。

反対側からも撮影するとこんな感じになります。

流石に将軍様目線で写真を撮ることは叶いませんでした。

縁側の高さが高いことが気になりました。

なぜこんなにも高いのかは調べましたが分かりませんでした。

わかる方いたら教えてください。

さあ、次はいよいよ本丸です。

7.  重要文化財 本丸櫓門

本丸を防御する門として重要なもんであったということが書かれています。

廊下橋[二条城]
HPから引用(提供:香川元太郎)

徳川家光が造営し、唯一焼け残った遺構である。

とのことです。

8. 園庭 本丸

明治の時代の話になり比較的新しい話になります。

明治天皇が本丸の最上階から指示を出して作らせた庭園とのことです。

二条城には歴史が詰まってる。

9. 天守閣跡

ちょっと分かりにくかったのですが、伏見城から移築されたとの内容が書かれていました。

10. 本丸御殿 工事中

これは残念でした。

でも工事中にしか見れないものもあると思い、納めておきました。

工事中の写真まで撮っておきました。

完成が待ち遠しいです。

11. 重要文化財 土蔵(北)(米蔵)

ここの蔵に米を貯蔵しておいたことで攻め込まれたりしても籠城をして暮らしていけるような備蓄倉庫になっていたそう。

ですので、この米蔵はこんなにも大きいのです。

12.  野面積み?

二条城の石垣について少し考えて見ることにしました。

石垣は全部見ていくといろんなものが組み合わさっているように思えます。

これは後に作ったものと様々なものが融合しているようにおもえます。

いろんな方のホームページを訪問させてもらいましたが、なかなか”言われている”という部分が多くこれからまだまだ研究が重ねられて発見されていくのではないでしょうか?!

もし詳細が分かれば私にも教えて欲しいです。

なお、二条城には算木積みはもちろんのこと野面積みと切込接布積み等の石垣が積んであり様々となっています。

13.  加茂七石

加茂七石を見てきました。

賀茂川(鴨川)に産し、水石として珍重される石の総称のことをいう。

なお、七種には限らないとのことである。

14. 清流園

京都市が迎賓施設として作った場所のことである。

二条城とマッチしていて、またお茶を楽しめる場所もあり最高の雰囲気にあります。

15. 重要文化財 北大手門

正門の東大手門の控えの門として役割を担ってきたものである。

なお、北大手門は連絡門としての役割りを担ってきたものである。

3. 二条城に関わった歴史人物

・1人目

 徳川家康

徳川家康

二条城の二の丸部分に初めて入城したのが徳川家康です。

また、西諸大名らに築城を命じたのも徳川家康です。

・2人目

徳川家光

徳川家光

徳川家光が現在のお城の大きさまで拡張するよう指示をして現在の大きさに至る。

その後、本丸御殿が焼失。

・3人目

後水尾天皇

1626年に後水尾天皇が二条城に行幸した。(5日間)

・4人目

徳川家茂

徳川家茂

3代将軍家光以来の二条城への入城。

本当に簡単に書いてありますが、簡潔にいくとこんな感じです。

最低限の歴史を覚える上ではちょうどいいかもです笑

歴史が好きな人でもっと詳しい方にはもの足らないかもです。

4. 二条城入城チケット購入

入城料等料金

入城料/二の丸御殿観覧料展示収蔵館観覧料(入城料のみ)
一般1,030円100円(620円)
一般団体(30名以上)830円(520円)
中高生350円
小学生200円
  • ※小学生未満の方は無料です。
  • ※一般の方について、入城後、二之丸御殿や展示収蔵館をご覧になりたい場合は、総合案内所又は展示収蔵館にてチケットをご購入いただけます。(展示収蔵館では展示収蔵館観覧券のみ販売しています。)     HPより

少し前のサイトやブログを覗いて見ると入場料が600円台になってました。

コロナ禍で値上がりしたのでしょうか。買った時にも確かに高い気はしましたが、私自身行きたい場所でしたのでそこまで細かくは気になりませんでした。

5. 私のオススメ

1. 勉強

私は今回の旅で学んだことは勉強してから歴史ある場所へ行くと見えてくるものがまた一段と違って見えるということです。

やはり何も知らずにとりあえず行ってすごいなぁとなるのもいいですがそれ以上に様々なことを吸収することができます。

ですので皆さまにオススメしたいのは簡単でもいいので一度二条城に触れてから現地にいくことをオススメします。

しかし勉強が嫌いだし、なかなか手につかない方も数多くいると思います。

そんな方のために次の章でオススメがあります。

ぜひ参考にしてみてください。

なお、Yahoo検索や図書館で本を借りることも一つの手ですので参考にしてみてください。

2. 大河ドラマ

西郷どんの画像

西郷どん!

大政奉還の描写が入っています。

徳川慶喜!

これも同じくあります。

その他にも大河ドラマは本当に面白く忠実に再現されているものも多くあるのでぜひみてください。

ちなみに私は使いではありません笑←純粋に面白いので。

3. 最後に

如何でしたでしょうか。

二条城に行きたくなったのではないでしょうか、また二条城に行った気になったのではないでしょうか?!

今後もブログを様々な角度から多種多様に書いていこうと思っておりますのでぜひみにきてください。

あなたにとって役に立つ情報が舞い込んでくるかもです。

特にお得情報なんかはチェックしてください。

旅行好きには良い情報を流してあります。また旅行に行けない人にもこのようにブログとして旅行に行ってもらえればいいなと考えております。

二条城ホームページ↓↓↓

https://nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp

また更新しますので遊びにきてください。

それではっ。

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